高山、まちの歴史
飛騨高山を造った人物
飛騨高山の原型を作ったともいえる人物が、金森長近(かなもり ながちか)です。
長近は戦国時代、織田信長に仕え、斎藤氏攻略戦などで活躍。その後、柴田勝家の与力となりますが、勝家が滅ぼされたのちは羽柴秀吉に従い、天正13年(1585年)に飛騨国を与えられました。
慶長5年(1600年)に行われた関ヶ原の合戦では、東軍の徳川家康方について戦い、戦後は飛騨高山の藩主となります。そして、高山城を築城しました。
長近は、築城と同時に、京の町並みを模して碁盤目状の城下町の町作りや寺社の建築も進めました。現在、高山が「飛騨の小京都」と呼ばれる所以です。
長近は1608年に85歳の生涯を終えますが、金森家は107年もの間、6代にわたって飛騨高山を治めました。
とくに長近という人物は茶の道に通じ、千利休らに茶の湯を習うなど、文武を両立した賢い武将として知られています。
信長~秀吉~家康と時代の支配者に順応し、時流の判断を見誤ることなく85年もの長い人生を生き抜いた金森長近。高山が文化の薫り高い町となったことも、そんな「金森家」の影響なくしては有り得ないといえるでしょう。
今はなき名城 高山城
高山城は、標高686.6メートルの城山に築城された平山城で、別名臥牛山城とも呼ばれました。本丸が天守閣となる通常の城の概念とは異なり、茶室に櫓を組み合せたようなその独特の構成から、かつては「日本三名城」ともいわれていました。望楼型2重3階の非実戦的な天守を持った御殿風の古い城郭形式は、織田信長の安土城の影響を受けたものとみられています。高山という地名の由来が、この城にあるという説もあります。
天正13年(1585)、金森長近が旧領主三木氏を攻め、入封。その翌年構築に着手し、天正18年(1590)に築城を開始、完成までには計16年の歳月を要しています。
元禄5年(1692年)の金森家国替えにより、高山城は加賀前田家の管轄となりましたが、その維持には大きな出費を必要とする一方で、飛騨高山代官から常に監視されるという割の合わない役目であったことから、前田家は幕府に高山城破却を申し出、元禄8年(1695)に許可が下り取り壊しとなりました。ここに天正年間から始まる飛騨最初で最後の大名、金森家の遺構は姿を消し、幕府の天領時代が始まったのです。
現在、高山城は二の丸以下の曲輪、堀、石垣、土塁などの遺構が残るのみとなっています。
なお、高山城築城に際して、金森長近が京都から大工の棟梁を招いたといわれており、この築城を契機として、元々「飛騨の匠」といわれる名工を擁する建築水準の高い地域に、当時の最新文化である京都の建築技術が融合して、飛騨高山の建築技術が飛躍的に向上したといわれています。