飛騨の匠とは

木を、そして豊かな山々を育む飛騨国の風土と気候。
飛騨国の山林は良質で丈夫な木材が豊富で樹種が多く、さらに里山が広がっていて山の木を使いやすい環境にあったことから、木工の発祥、そして技術の向上へとつながっていきました。

「飛騨の匠」の起源

奈良時代、大化の改新によって「租・庸・調の制度」が制定され、農民は米や織物、特産物を納めたり、一定期間就労することが義務付けられましたが、飛騨国に対しては古来からの高い建築技術を都造営に活用するため、政府は木工職人の派遣を義務付けました。飛騨国はその見返りとして、庸・調という税が免ぜられました。厳しい労役に耐え、並はずれた腕を誇った職人たちの技は賞賛され、いつしか彼らは「飛騨の匠」と呼ばれるようになりました。後に「飛騨の匠」は名工を讃える美称ともなっていきます。

「飛騨の匠」の歴史と活躍

律令制度によって徴用された「飛騨の匠」は年間約100人、その制度が存続した平安時代末期まで、延べ4万人の匠が宮殿や門、寺院などを造る仕事にたずさわることとなります。彼らは薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺など多くの神社仏閣の建立に関わり、平城京・平安京の造営でも活躍して、日本建築史の黄金時代を担いました。そして、都への出仕によりさらに建築技術を磨いた「飛騨の匠」は、役目を終え地元へ帰ると、都の新しい文化を取り入れ、その技術を故郷の国造りのために活かしたのです。
「飛騨の匠」制度の後、表舞台から姿を消すこととなったその技術は、民家や家具などの形で個人として潜在化した時代を経て、江戸時代になると、高山を統治する金森長近による京にならった高山の町造りや、千利休に師事した茶の道具造りで再び花開くことになります。そして江戸時代後期には、絢爛豪華な高山祭の屋台造りへと活かされていきます。屋台の木工、塗り、彫刻はすべて高山の職人「飛騨の匠」によるものです。

「飛騨の匠」の長い伝統と、その中で培われた技術は、有形・無形両方の体をもって、今もなお脈々とこの地に受け継がれています。